無知雑言

独り言の整理整頓

幸福と人生の目的

 人生の目的は、と安易にネットで検索すると、哲学者の考えた人生の目的!的な記事がヒットする。そのネット記事様が言うには、多くの哲学者が、人生の目的は幸福になること、と主張していると言う。

 なんだそれは、無責任な、と思わざるを得ない。幸福を求めるなんてことは当たり前だ、その幸福の意味が知りたいんだ、と。でも、よく考えると当たり前でもないな、と思う。その時代を生きた人にとって、神だとか国家、あるいは戦争だとかで、個人の人生は個人のためにあらず、そういった崇高とされていたもののためにあると本気で説かれていたから。

 やっと最近になって、世界では、とは言わないがほとんどの国で、個人が個人のために生きる事が良きものにされたから。

 話を戻すと、それにしても人生は幸福のためにあるという主張は無責任だなと思った。自分は、その内容をあえて全集を買うまでして調べてないからの無知故の雑言なのだが、そう思った。

 人は、自身の人生に満足ができていない、あるいは存在を脅かすほどの大きな壁にブチ当たった時に、人生の意味を問うと言う。

 かく言う自分も、死の淵に立たされて、というか自ら盲目に進んで立ち、またしてもこう言う疑問が頭から離れなくなった。

 人生の意味、、、と問われて、頭のてっぺんから、能無しにふっと思いつくのは、愛、あるいは文学または哲学だ。

 愛は、女子高生が夢見るような恋愛含め、親子の愛、友人への愛。

 文学や哲学は、自分の体験や考え、価値観や、そういった、どう世界を見て、過ごしてきたかと言う、いわば履歴。

 哲学と愛の違いは、まぁまた別の機会に。重要なのは、自分にとって、文学も哲学も、残すということが重要なのだ。

 

 ここで一旦、一般的な、バカでもイメージする人生を考えてみると、金、仕事あるいは地位、世間体でいう意味の結婚や子供、社会への貢献、などがある。バカらしい。

 今更だが追記しとくと、この場では一切、言葉を選ぶつもりはない。過去の投稿も、あえて、希薄で表面的な書き物をした自分の淡き記憶として残すが、雰囲気や気質が大きく変わるだろう。ただ、脳内の思考にちょっとだけ文体というもの、または脈絡というものを告げたして書いているだけである。だから、言葉遣いが間違ってる、日本語が変だ、読みづらい、などのクレームは臭いから飲み込んでくれ。

 んで、話を戻す。上記のような、いわゆる資本主義者がいうような価値には、僕は全く興味がない。これは、本当に。仕事なんて、いや、あえて言い換えると、労働(仕事と労働の違いなんて自分で調べてくれ)はまったくもってしたいと思わないし、金も必要ではあるが欲しいとは思わない。彼女や結婚でも、自分の思う愛が存在しえなかったら、まだ、いまの男友達と結婚したいと思う。

 そんなものに、一生を費やされるなら、ストカン飲んで来月に死んだ方がまだましだ。

 そもそも、人生の意味についてまともに悩んだことがある奴なんて、そうそう会ったことがない。悩みを話さないだけにしても、にしても、とんちんかんな価値観をぶら下げてるやつが多すぎる。それでいて、自分の目にはそいつらが充分幸せそうに見えるから、だから自分は捻くれてるのだとつくづく感じる。

 仕事をする、あるいは社会を発展させるということが、9999の酒を飲んだ俺には無意味にしか思えない。いずれなくなる人類が、これ以上テクノロジーやらインフラやらを発展してなにになる。あえて、便利になるだけだろう。そんな便利は、一瞬のうちに当たり前になり、それをもたらした人の存在なんて、誰も知らないし気にも留めない、感謝もしないに等しい。救急車で運ばれて命を救われてみろ。あぁ、エジソン様が電球を開発したおかげで救急車が間に合った、あぁ、タイヤがあってよかった、あぁ、車を発明してくれてありがとう、なんてら思うか?せいぜい、その場にいた隊員や医者達に感謝するくらいだろう。

 そんなの、仕事はてめえが感謝されるためにあるんじゃないと言われそうだが、じゃあなんのためだ?金か?

 金なんてもんは、塩水と同じだ。そもそも、その金でなにをする気だ。お前の幸せは何で、いくらで何を買えば幸せになれるんだ?

 金を神格化して、金に踊ってるところを見ると、つくづく、人間は社会のための生き物だと思う。社会がなんだ。社会なんていう、目にも見えない生き物の腹を満たすために、何人の人が不幸になって、それで死んでいくんだ。

 金の話をしてるからか、電車でこれを買いているからか、気持ちが悪くなってきた。

 じゃなんだ、愛か。と思うが、ここではまた長くなるから愛がなんだって話はしないが、愛がなにか、それでどう幸せになるかは難しいし、ほとんどの人はそれを分からない。愛は体験と苦悩からしか発展はしない。

 その、愛が人生かと問われ、俺は恐らく、そうだと答える。だがどうだ、人類みな愛のために生きてみろ、世界は1年と持たないぞ。これだから、生きるのは面倒だ。

 愛のために行きたいが、それができないから社会を仕事や金で回して、時間を稼いでる。誰だかが、仕事は趣味がない奴の暇つぶしだとかいっていたが、そんな感じだ。

 ここまで言っておいて、なんだが、俺はまともに仕事をして、家族なんかを養ってる人をほんとうは本当に尊敬している。もし、こう言った苦悩を踏まえても仕事をしているとしたら尚更だ。俺には、そこまで、社会の舞台で演じる演技力も素直さもない。要するに、社会不適合だとヤジを飛ばされるような人種なんだ。

 愛に行きたいが、仕事ができない。しかし、自分が最も、とは言わないが、恐怖するのは、今の自分の人生がこのまま無になり、存在したこと、また、自分の今の文学や哲学が無になるとこが怖い。そうなってしまったら、なんで生まれてきたのか分からなくなる。

 生まれてきた意味なんてないし、死ぬことにも意味はない。だから、何も考えずにただ生きればそれでいいという考えもある。それもそうなんだが、味気ないから好きではない。

 何かしらの、自分だけでもいいから納得する生き方が欲しいのだ。その一角、というか、今のところの解が、文学や哲学として、生を残すということだ。

 しかし、それですら、どんな傑作でも、10億年も経てば無になってるだろう。今、隕石か何かが地球を破壊すれば、明日にでも、今までの人類の全てが無になる。

 所詮、人類には人類のために生きることしかできない。せめて、自分のために生きたい。せめて、自分が愛する人のために生きたい。それを否定する社会なんてクソ食らえ。